いなかの主婦よりもの申す

地方在住いち主婦の気になるニュース論

仙台市いじめ母子心中


学校でのいじめを苦にして自殺した小学2年生の女児とその母親に対して、残された父親の周辺では二人を中傷するような声も上がっているとのこと。

一見意味が分かりませんが、田舎ならなるほどありがちだとも思えます。


当事者でない他人は本当に勝手なことを言いますよね。

そういう他者の気持ちを考えられない、考えようとしない人間たちのご同類が無神経ないじめを引き起こすわけです。


今回の一件で非難されるべきは当然、対応策を誤り最悪の事態を引き起こした学校、教育委員会ですが、それより何よりいじめの加害者とその保護者ですね。

なぜ発端である彼らは矢面に立たされもせずに守られて、事もあろうに被害者側がいわれのない中傷まで受けるような事になるのか?

私が日本という狭い風土に染み付いた「狂気じみた事なかれ気質」を心から憎く思うのがこうしたニュースに触れる時です。


このニュースの舞台である仙台市に私もかつて暮らしていました。

そして私自身もその当時にいじめを受けた経験があります。


今とは時代が違うということもありますが、私は親にもいじめを受けていることを言えませんでした。

そしていじめの事実を知っているくせに何ら対応しようとせず、家庭訪問の時もその事には一切触れず、まるで貼り付けたような、脅すような笑顔で私に話しかけてくる担任に絶望し、ひたすら耐えて時間の過ぎるのを待ちました。

人をいじめるような奴らは、遠くない将来きっと地獄に落ちると信じて。


受け身一方な私の対処の仕方が正しかったとは思いません。正解はないとは言っても、やはり何らかの形で声を上げるべきだったと今は思います。


仙台は東北一の都市ではあっても、中心部を除けばあとはど田舎です。

窮屈なコミュニティが、変な揉め事を起こしたくない、大袈裟にしたくないという狭量な保身根性を生み、それが大人から子供へと伝染していき、何かあっても誰も彼もが見て見ぬ振りをする。

そうしているうちに麻痺して鈍感になり、気付かぬうちに自らも加害者となっていく。

そんなことの繰り返しです。

陰湿ないじめは何も都会の専売特許というわけでは決してなく、自主性のない田舎には田舎特有のタチの悪さがあるのです。


いじめを軽んじる人たちの目を覚まさせる意味でも、まずいじめの加害者とその保護者にはある程度分かりやすい社会的制裁がなされるべきと私は思います。

その後で、子供たちを守る立場でありながら適切な処置をすることを怠り事態を悪化させた教育者とその組織を罰する。


そこまでして初めて、加害者でも被害者でもなく、知りながらただ傍観していただけの人間にも「沈黙は善ではない」と危機感を持たせることが出来るのではないでしょうか。


いじめというものは、被害者として経験した人間にしか分かりませんが、殴り合いのケンカのようにある種遊びの延長線上にある明るい類のものでは決してなく、至って陰惨で恐ろしいものであり、ひとたび巻き込まれれば大人さえをも死に追いやる集団的(精神)暴力です。


それがなぜ子供の場合に限ってだけ「単なる悪ふざけ」だとか「大袈裟」だとかのぬるい文句で事を済ませられると思うのか、そこがまず大きな間違いです。

結果的に人を死にまで追いやったような人間が、大した制裁も受けず何の反省もせず大人になって、またその子供が少しの罪の意識もなく人をいじめる人間になる…こんな連鎖が普通であっていいはずはないのです。


残されたお父さんは本当にお気の毒ですが、「死にたい」と一度でも口にした娘と、一緒に塞ぎ込んでいってしまったお母さんをお家に二人きりにしてしまうべきではなかった。

一時的にでもどちらかのご実家など、誰かの目の届くところに連れて行っていれば…


難しかったのでしょうね。或いは思いもよらなかったのかも知れない。全ては今更です。

「死にたい」と言う人は本当に予期せぬ早さで呆気なく命を絶ちます。

後悔をしないよう、周りは常に先回りして考えてあげなければなりません。


そして、

「死にたい」と思うところまで相手を精神的に追い詰め手を汚さずに命を奪うことと、

相手の肉体に直接ナイフを突き刺して命を奪うことにどれほどの差があるのか、本当に差があるのか、

いじめに手を染めたことのある人、今まさに染めている人には考えてみてもらいたいのです。