いなかの主婦よりもの申す

地方在住いち主婦の気になるニュース論

公的権力と芸術表現


今のところ、あいちトリエンナーレ実行委員会から文化庁への事前申告について、どこまで詳細に行う必要があったのか、具体的に何が問題だったのか、その詳細をわたしは知り得ていません。


知らないままニュースについて述べることは無責任かも知れませんが、しかし「慰安婦を表現した少女像」や「昭和天皇を含む肖像群が燃える映像作品」等の公開に対し、

放火予告も含め多くの抗議があったこと、そして止む無く中止になったこと、

それと国からの補助金が交付されなくなることとは一体何の関係があるのでしょうか?


そもそも「抗議を受けて中止になる」こと自体首を傾げるところであり、昨今のマスメディアの過剰防衛態勢というか「少しでも苦情が来ればすぐに引っ込める、または苦情の来ないものしか作らない消極的生産活動」の方向性と全く同じで、抗議する側への全面降伏が当たり前な風潮は、「表現の自由」が完全に奪われているという現実を如実に示していて、全く納得がいきません。



芸術に対する苦情や抗議は、その人たちの単なる感想であって、正義でも何でもありません。

芸術表現に対して賛否両論あるのはいつの時代も同じで、至って当然のことなのに、なぜ「否定」だけを不当に大きく取り上げるのか?


放火予告に対しての予防的措置というのも理屈は分かるけれど、そこで中止にしてしまっては完全な敗北であり相手の思う壺で、思想の違いに対しては一方的な暴力や危険行為ではなく、正々堂々対話でたたかうべきだと訴えることこそが正しい在り方なのではないでしょうか。

誤解を恐れずに言えば、たとえ作品に火をつけられたとしても決して信念を曲げないのが真の表現者なのだと思うのです。

少なくともそれぐらいの覚悟は持って、表現者たちは作品を生み出していると信じたい。



本来であれば事細かに展示内容を明記して申告すべきところを、実行委員会側が「面倒はすり抜けてやったもん勝ち」的な狡い手段を使っていたというならある程度のペナルティもやむを得ないかも知れませんが、一度は補助金を交付すると決定されていたものが、騒ぎが起こってから全て覆されるという不自然な経緯には文化庁側の都合しか感じられません。


どれほど強烈だろうと残酷だろうと、本来芸術として表現されるものに対して行き過ぎだとかやり過ぎだとか、勝手なものさしを持ち込んで一方的に判断をすることはとても貧しい行いです。

公的権力が芸術を脅かし、貶め、国民の目を塞いで操ろうとすることは、もう二度と許されてはならないのです。



慰安婦モチーフ作品だの昭和天皇が燃える作品だのを展示しようとするのは韓国寄りがどうのとか、右だの左だのとか、すぐにそうした薄っぺらい議論に持って行きたがる方々も多いようですが、本当にどうでもいい。

そんなことを言い出す方々には、芸術にケチをつける前に小学生向けの「せかいへいわについて」的な本から勉強し直して頂きたい。


どの国のどんな色の人も、みなが自由に平等に表現すること、論じ合うことが許される世界であって欲しい。

そうでないといけないと考えているだけです。