いなかの主婦よりもの申す

地方在住いち主婦の気になるニュース論

戦争について考えることの必要性

今年もこの時期がやってきました。

うだるような暑さでともするとだらけてしまいがちな日々の中、カレンダーを見てはっと気づいて少し背筋が伸び、ちゃんと全力で生きなければと決意を新たにする、8月。



わたしの頭の中の最も古い「戦争に関連する記憶」は、映画「はだしのゲン」です。

たしか小学校の中学年か高学年の時、学校の授業の一環で見ました。

それまで戦後生まれの父母からはもちろん、戦争を経験した祖父母たちからも戦争の話など聞いたことがなく、空襲も原爆も何も知らなかったわたしにとって、鮮烈な描写のその映画はとてもショッキングなものでした。


国と国が戦うとこんなに悲惨なことになって、自分も家族も友達もあっという間に死んでしまうかもしれないのだ…という事実が恐怖でしかなく、「戦争をしてはいけない」と強い思いを込めて感想文に書いたことをうっすら覚えています。


ただ、ショッキングな描写といってもわたし自身は嫌悪感やトラウマになるようなレベルの恐怖までは感じずに済んだのですが、中には半分怒ったように「二度と見たくない、気持ち悪い」と言っている子もいて、子供心に「色々なんだな」と思った記憶があります。


今は、そういった少し過激な描写のある戦争映画はあえて子供たちには見せないという風潮もあるようです。

でも、戦争という歴史の悲しい事実を知る自由を子供たちから安易に奪ってしまうことにはわたしは賛成しかねます。

その年齢、その瞬間でしか感じられない気持ちがあるはずです。

まず一度見て苦手だったらその後は自分で選択するなり注意を払う、それも子供自身の学びであり、親の「見せたくない」という一方的な選択で大事な機会を奪うのは、精神的成長を阻むことにしかならない気がするのです。


その後も映画「火垂るの墓」や、NHK被爆者の方を追うドキュメンタリーなどを学校の授業で見て、少なくともわたしは戦争そのものに、そしてその傷あとに深い関心を持つことが出来ました。

感想を求められる度に何度も何度も書いた「戦争をしてはいけない」という願いは、私たちがどれだけ一生懸命願っても訴えても、外交やら国益やら政治やらの諸々を最優先に考える「えらい人」たちによって時に完全無視され、踏みにじられることがあるのだということも、皮肉にも学べば学ぶほどに分かるようになりました。



自分たちの国の来し方を知ること、学ぶことは、これからの自分たちが誤った方向へ進まないための抑止力を会得することに繋がります。

逆に言えば、「戦争なんて何十年も前の古いこと」とシャットアウトすることは、同じ過ちを繰り返してしまうことに繋がるのです。

長い長い地球史で考えればまだほんのわずかな地球人史の中で、人はどれだけ似たような争いを懲りもせず繰り返していることか。

人間は愚かなので、知って学んでその上で自分を律しなければすぐに間違えるのです。


生物はみな争いを避けられないものなのかも知れません。

でも争いを最小限にするための努力をいつだって怠るべきではない。

たとえ小学生にだってそうして真剣に考える時間があって然るべきで、その材料として時には目を背けたくなるような辛い現実やリアルな描写を見せることも必要だと思うのです。

怖さを知らなければ、それを防ごうという知恵も備わらないでしょう。



最近ちらほらとネットニュースでも話題になっていますが、ひと昔前に比べて圧倒的に、この時期の戦争関連の特別番組放送が減りました。

「戦後何十年」といったキリのいい節目にやっと多少長尺の番組が放送される程度で、あとはNHKがドキュメンタリーをいくつか、民放に至っては通常のニュースワイドの中で少し枠を取って触れるぐらいで終わるところもあります。


わたしが子供だった30年くらい前には8月あたまから終戦記念日までの間、各局とも戦争関連映画はもちろん特別番組が目白押しでした。

それだけ時間が経っているのだから関連番組が減っていくのは自然なこと、という見方もあるのでしょうが、わたしは残念な気持ちと共に危機感も覚えます。


国民全体が戦争の残酷さを全く知らない世代に完全に入れ替わった時、また次の戦争がもたらされるのではないか。


そんな事態を招かないために、目を覆いたくなるような現実もしっかり直視させ、一人一人が歴史について、戦争についてよく考えることの出来る良い番組を、この時期くらい各局が鎬を削って制作してほしいと思うのです。

スポンサーも視聴率も気にせずに。



「戦争」にも「平和」にも大人と子供の区別はありません。

考えるための機会は皆が平等に得られなければならない。


間違っても戦争は「必要悪」ではありません。

それを望まない人が一人でもいる限り。